☆京都パワースポット巡礼(安井金毘羅宮参拝)

先日京都旅行をしましたのでいろいろ神社参拝しました。その中で印象に残ったパワースポットをご紹介します。まずは祇園から近い安井金毘羅宮です。

神社の由来は天智天皇の時代に藤原鎌足が一族の繁栄を願って仏堂を建てて藤を植樹したのが始まりです。平安時代になると藤の名所になり崇徳(すとく)上皇が寵愛していた阿波内侍を住まわせてたびたび御幸し藤を愛でて楽しんでいました。しかし崇徳上皇は1156年に起きた保元の乱で敗れて讃岐国(現在の香川県)に流罪になります。1164年配流先で崇徳上皇が崩御すると阿波内侍は深く悲しみ出家して尼になりました。そして藤寺観音堂に崇徳上皇の尊影を奉納し塚を築いて遺髪を埋めて日夜勤行に励み供養したのです。その後たびたび崇徳上皇の霊が現れたので後白河法皇の勅命により崇徳上皇だけでなく讃岐の国にある大物主神と以仁王の挙兵で敗れ討ち死にした源頼政が祀られました。由来は仏教施設で寺でしたが神社になったのは明治時代の廃仏毀釈からになります。こうした経緯があるのでこの神社は元々政争に敗れ怨霊となった魂を祀り祟りを封じる施設なのです。

参拝して霊視すると現在この地には黒くてとても力のある龍神様が眼光鋭く睨んでいました。少し恨みの波動を感じたのでテレパシーで聞いてみたら崇徳上皇ご本人でした。歓迎されたのか当日は晴天なのに参拝した途端に上空から奇跡的に雨が降って来ました。

崇徳上皇は都では穏やかで優しく教養ある方でした。和歌に通じ「詞花和歌集」を編纂するなど貴族達からも尊敬されていました。政治的な野望も無く都で女房達や皇子達と隠居して雅な暮らしを願っていました。しかし後白河天皇派との権力闘争に巻き込まれて不慣れな戦で敗れ側近の藤原頼長と共に没落してしまいます。配流先の讃岐では自らの戦いで亡くなった者の菩提を弔う為に法華経、華厳経、涅槃経、大集経、大品般若心経を写本して京の寺に納めて欲しいと願いますが後白河天皇に呪詛が込められていると疑われて拒否されます。配流先での讃岐国での悲惨な扱いもあり怒った崇徳上皇は死後怨霊になったそうです。その後1176年になると後白河天皇や側近の藤原忠通に近い人物が続々と亡くなりさらに翌年の1177年延暦寺の強訴、安元の大火、鹿ケ谷の陰謀という社会的な大事件が次々と起きて崇徳上皇の怨霊を恐れた後白河天皇は崇徳上皇の罪人扱いを止めて崇徳院廟を建てて祀りました。都が恋しい崇徳上皇の怨霊は阿波内侍が建てた塚と藤寺に戻りしばらく怨霊として後白河天皇の子孫に祟りをもたらしていたのです。その後蓮華光院という寺の頃にたくさんの庶民が参拝して崇徳上皇は敬愛され江戸時代に縁切り祈願で有名になったようです。怨霊だった崇徳上皇は人々の祈願の力でどんどん浄化し現在は黒い龍神様になりました。もちろん讃岐の国の金毘羅神社の主宰神である大物主神様とも通じているので縁結びの祈願も出来るそうです。この黒い龍神様は元々怨霊だったので念力が強く縁切りが得意です。

縁切り祈願の仕方はまず拝殿で参拝して縁を切りたい事を祈願します。そして境内にある御札に縁を切りたい人や出来事を書いて大きな石の狭い穴をくぐります。他の方は御札の表に書いていましたが裏に書いても龍神様に通じるようです。その後御札をのりで大きな石に貼って縁切り祈願は終了です。

ちなみに私は持病からの縁切りと愛車がいろいろ不調が続いていたのでクルマの不具合からの縁切りを祈願しました。後日談ですが京都旅行前には愛車のハンドルを低速時に大きく左に回すと異音がしてました。クルマは5月に車検を受けたばかりです。占いをしてみると故障では無いと出ていて困っていました。安井金毘羅宮で縁切り祈願して帰宅した3日に走行中左前のサスペンションから石が落ちてバウンドして車体の下にあたりました。なんと小さな石がサスペンションに偶然挟まっていた不具合でした。それから低速で左に大きくハンドルを切っても異音は無くなりエンジンも滑らかに回るようになりました。改めて安井金毘羅宮の縁切り祈願の凄さを実感しました。病や出来事、悪い習慣の他に人との縁切りも得意な龍神様なので嫌な人物と縁を切りたい方にもお勧めの神社です。京都に立ち寄った際はぜひ黒い龍神様に縁切り祈願してみて下さいね。

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